目黒不動には様々なスポットが存在

近隣には目黒不動を中心に、いくつかの神社仏閣が点在し江戸時代からの寺町として発展してきました。
毎月28日の縁日には露天などが立ちならび、多くの参拝客でにぎわいます。

青木昆陽の墓

青木昆陽は、江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄11年(1698)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学びました。幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となります。
彼は八大将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、「和蘭文字略考」「和蘭訳語」などを著述しました。また「蕃薯考」を著し、救荒作物として甘藷(さつまいも)の栽培を奨励したために、"甘藷先生"と呼ばれました。明和6年(1769)歿。行年72歳。
墓は「瀧泉寺」の裏山にあります。

比翼塚

幡随院長兵衛との掛け合いでお馴染み、四代目鶴屋南北作の歌舞伎狂言「御存知鈴ヶ森」の主人公白井権八は、実在したかどうかは不明です。(一説では実在の人物で、改心して自首するどころか、手のつけられない粗暴な大悪党だったとか)
東昌寺があったこの場所には、権八と小紫の来世での幸せを祈って、比翼塚が建てられています。

三折坂

目黒不動の脇を通る坂。
三つに折れ曲った形状から三折坂と呼ばれるようになりました。
また、目黒不動への参詣者がこの坂をおりていくので、「御降坂」とよんだともいわれます。

石古坂

石ころが多い坂だったので石古坂とよぶようになったといわれています。 また、この近くに石河という屋敷があったので、坂名になったともいわれています。

かむろ坂

伝承によるとかむろ坂の名称は、歌舞伎や浄瑠璃の題目として有名な白井権八伝説に絡むものです。 江戸前期の浪人・平井権八が辻斬り強盗の罪で延宝7年(1679年)に鈴ケ森刑場において処刑されました。恋仲だった遊女・小紫は、権八の処刑の報を聞いて店を抜け出し、東晶寺に向かい墓前で悲しみのあまり自ら命を絶ちました。帰らない小紫を心配した三浦屋の下女であった「かむろ」が東晶寺へと向かい、小紫の死を知ります。その帰り道に当地の付近で襲われそうになり、桐ケ谷二つ池に飛び込み自害しました。これを偲んでかむろ坂の名称がついたといわれています。

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